『海の想い出』

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 このブログでは海や船を取り上げることが多いのにお気付きかと思います。

 この理由は私の趣味の狭さ、カバーできる分野の狭さによるものであり、若い頃にもっと幅広い教養を身に付けておけばよかったと忸怩たる思いをしています。

 

 今回のタイトルは「海の想い出」ではなく、『海の想い出』です。

 つまり、私個人の想い出ではなく、そのような題のついた本の話です。

 

 ジョセフ・コンラッドという作家がいます。

 記録によると1857年にポーランドで生まれたイギリス人の作家で、1924年に没していますが、17歳から25年間を船乗りとして暮らしていました。

 それはちょうど世界の商船が帆船から蒸気船に移っていく時代であり、彼は帆船乗りとして暮らしていました。

 

 コンラッドというと『青春』や『台風』などの中編小説を思い出す方が多いかと思いますが、私は彼の” Mirror of the Sea “という随筆が好きで、学生時代から繰り返し繰り返し読んできました。

 

 最初は神田の古本屋街で偶然見つけたのですが、元々保存状況の良くない100円均一状態で売られていたものだったので、連絡官として米国に駐在していた時、近くの書店で売っているのを見つけて買い直しておきました。

 

 彼が船乗りとして出会った人々見てきた光景、体験してきた数々の出来事を思い出しながら綴ったこの随筆は、船乗りでなければ書けない臨場感に溢れています。

 

 全体を通して語られているのは、単に「海は素晴らしい」とか「海はいいぞ」ということではなく、海への畏れ、圧倒的な自然への畏怖、厳しかった生活を振り返った時に感ずる懐かしさであり、海がどれだけ厳しい世界であるのかが随所に語られています。

 

 この感覚はプロの船乗りだけではなく、ヨット乗りにも理解できます。

 

 ヨットに乗っていて、本当に快適で楽しいと感じている時間と言うのは、相対的には恐ろしいほど少ないものです。

 

 大抵は寒いか暑いかで、揺れると気持ちが悪くなりますし、風が無いベタ凪はイライラし、と言って風がビュンビュン吹いてくると、この先どこまで時化てくるのだろうと不安になります。

 夕方、辺りがだんだん暗くなってくると心細くなってきますし、夜、天気が良くて引き波に夜光虫でも光れば別ですが、雨が降ったりすると、遠くに街の灯でも見えようものなら、何故俺はこんなところにいるのだろう、と出航してきたことを後悔したりするのです。

 この海に対する感情をコンラッドは“Odi et amo” という言葉で表しています。

  

 これは古代ローマの詩人の一節から採った言葉だそうで、「吾、憎み、かつ愛す」という意味だそうです。

 

 ヨット乗りならこの言葉の意味が痛いほどよく分かると思います。

 

 海を舞台にした小説なら『白鯨』が屈指でしょうが、随筆となるとこの” Mirror of the Sea” を凌ぐものを知りません。

 

 船乗りならこの随筆を読んで懐かしさを感じるでしょうし、船に乗ったことの無い方なら、「船乗りの世界」というのはこういう世界なのかと理解頂ける随筆です。

 

  翻訳が文庫で出版されており、そのタイトルが『海の想い出』です。

 

 私は当メールマガジンで英語の問題を時々取り上げています。

 海の英語は分かりにくいので英語の専門家ですら誤訳をすることがあることを時々お伝えしているのですが、正直なところ、この『海の想い出』というタイトルは気に入りません。

 タイトルが気に入らないので、中身も読んだことがありません。

 どうせまた船乗りの英語を理解しない誤訳があちらこちらに出てくるのではないかと危惧しているからです。

 

 原題が “ Memory of the Sea “ならばともかく、 “ Mirror of the Sea “ なのです。

 

 英語の "mirror“には「鏡」という意味と同時に「ありのままに映し出すもの」というニュアンスがあります。

 文学者なら、その意味を訳すべきではないかと思っています。

 『海の想い出』ではあまりにも陳腐です。

 せっかくコンラッドが” mirror “という単語を使った意味が生かされていません。

 

 ではどう訳すのがいいかと言われると、私は文学者ではないので困ってしまうのですが、少なくとも『想い出』にはしないだろうと思います。

 

 直訳の『海の鏡』の方がまだいいように思っています。

 

 少なくともコンラッドが描きたかったのは「ありのままの海」なのですから。