歌の先生

f:id:oldseadog:20190131090730j:plain

 自慢ではありませんが、かつて仕事で歌を教えていたことがあります。

 と言うと学校時代の同期生などは頭の中が?マークだらけになってしまうのですが、本当のことです。

 そもそも学校を出てから自衛隊に入って、その後商社マンになり、今はコンサルタントか何かやっているはずなのに、歌の先生はどこでやっていたのかと疑問に思っているはずです。

 海上自衛隊幹部候補生学校を卒業して任官し、初めての艦隊勤務で護衛艦に乗組んだ時、若い幹部はいろいろな係を命ぜられます。本来の固有の専門的な配置のほかに、船の中で果たさなければならないいろいろな仕事を命ぜられるのです。

 例えば甲板士官というのは、艦内の整理整頓、規律の維持に全責任を負わされる大変な係ですし、体育係士官は乗員の健康管理のために計画的に乗員に運動をさせなければならず、部隊対抗の柔道や剣道、水泳、持久走など様々な体育競技に勝てるよう指導をしなければならないので、これも大変です。

 また、広報係士官というのもいて、体験航海や一般公開の際にはその広報要領を立案せねばならず重要な役割を担っています。

 このように航海、射撃、機関などの固有の配置のほかにいろいろな役割があり、乗組みの若手幹部はそれらの係士官をいくつも抱えているのが普通です。本業の仕事を覚えるだけでも大変なのに、多くの部下を抱え、その人事業務も行いつつ、それらの係士官としての仕事もこなしていかなければならないので、護衛艦乗組みの若手士官の多忙なことと言ったらヘタなブラック企業など足元にも及ばないものがあります。

 そのいくつも抱えている係士官の中で、隊歌係士官というものになったことがあります。

 軍隊では士気の高揚や団結の強化のため軍歌を歌わせることはよく行われます。自衛隊は軍隊ではないので軍歌とは言わず隊歌といいますが、その隊歌の訓練を計画し、指導するのが隊歌係士官の任務です。

 乗員は日常は訓練や機器の整備などで忙しいのですが、長い航海に出ると、できる整備にも限りがあり、訓練ばかりだと緊張が長続きしません。配置によっては航海中一切外に出ない乗員もいます。そこで気分転換を兼ねて当直についている者以外総員を甲板上に集め隊歌訓練をすることがあります。その指導をするのが隊歌係士官です。

 ただの気分転換だけではなく、護衛艦隊の各艦が一堂に会する集合行事が年に一度行われ、その一連の行事の中で様々なイベントが行われるのですが、隊歌競技会というのも開かれ、隊歌優秀艦のタイトルを争うものでもあるため、訓練でもあるのです。

 ある船で私はその隊歌係士官を1年間務めたことがあります。その船の私の配置も、ひとたび出港すると艦内の奥深いところで指揮をとるのが仕事でしたので、たまに後甲板で潮風に吹かれるのも悪くありませんでした。

 歌唱指導と言っても特に基礎的な音楽教育を受けていなければできないというものではありません。乗員を整列させ、「隊歌集○○ページ『艦隊勤務』 隊歌用意、前へ進めっ!」などと号令をかけ、乗員が大声で歌っている最中には「声が小さい!」「全く聴こえん!」とか叫んでいるだけなのですが、しかし、これが誰にでもできるというものではありません。

 候補生学校で毎朝号令をかける訓練を行い、若い幹部らしく元気いっぱいに気合が入っていないと全く様にならないのです。海風の中で、全乗員が歌う声より大きく張りのある声で気合を入れなければならないので、士官室でも元気のいい若手幹部が選ばれます。

 つまり、仕事で歌を教えていたというのは、嘘ではありません。

事実と真実はかならずしも同一とは限らず、微妙に異なることがあります。私が仕事で歌の指導をしていたというのは、事実に反しているわけではありませんが、真実かと問われると、本人にとっても「?」です。

それでも、若かったある一時期、若くなければできない仕事を無我夢中でやっていた頃を懐かしく想い出す「仕事」ではありました。