フェンスの向こうのアメリカ ~横浜憧憬~

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 柳ジョージという歌手がいました。私は彼の歌が好きで、一度はライブに行きたいと思っていましたが、惜しくも亡くなってしまいました。

 私よりは年上でしたが、彼が歌う横浜あたりの景色は私もよく知っている風景です。

 

 本牧から磯子にかかる一帯、米軍の官舎などが沢山あり、米海軍補給部隊の事務所などがあった根岸、あるいは昭和30年代の日活の映画などに度々登場していたスターダストなどいうバーがある瑞穂埠頭など、私が子供の頃の横浜の風景を彼はよく歌っていたものです。山下公園の根本にバンドホテルというホテルがあり、最上階にダンスフロアがあって、生バンドが入っていたころの話です。(もちろんそんなところに行った経験があるほどの年ではありません。看板を見ていただけですが。)

 60年代、70年代というのは不思議な時代で、安保条約をめぐって壮絶な学生運動が展開され、日本中が反米帝国主義の声に満ち溢れている一方で、若者たちはアメリカの文化に憧れ、アメリカの豊かさをうらやましがった時代でした。

 柳ジョージが歌った「フェンスの向こうのアメリカ」という曲もその頃のある種屈折した思いが根底にあるのかもしれません。

 

 なぜ私がそのような光景をよく覚えているのかと言えば、海上自衛官であった父が横須賀で勤務することが多く、私たち家族が住む官舎が横浜と横須賀の境にあり、幼いころ、父の休日などに横浜に連れて行ってもらうことがよくあったからです。

 中学・高校は横浜の全寮制の学校に入学し、学校の寮生活の休みの日は、ほとんどの級友が家へ帰ってしまうのに、父の転勤で両親がたまたま地方にいたので帰ることができず、横浜あたりをウロウロすることが多かったため、余計にその光景を覚えているのでしょう。

 その横浜の本牧埠頭に「シーメンズクラブ」というレストランがありました。(今もあることはあります。)その名のとおり、海員クラブで、横浜港に入港した船乗りが食事をしたり、お酒を飲んだりする場所です。

 幼稚園に通っていたころですから、昭和35年くらいだと思いますが、ここに父に連れられて行ったことがありました。その頃、母が長期に入院しており、そのため父も陸上勤務になって、日曜日などは遊んでくれることが時々あったのです。

 洒落たレストランで、入るとすぐにビリヤードの台がいくつも置いてあり、その向こうにはピンボールゲームの機械がたくさん並んでいました。そこを通り抜けるとバーがあり、バーの奥にレストランがありました。レストランというのは、デパートの上の方にあるものとばかり思っていた当時の私には極めてショッキングな光景で、映画で観る外国のようだと思いました。

 当時、横浜港を出入りする外国船の士官はほとんど欧米人で、シーメンズクラブにいたのも欧米人がほとんどだったように思います。

 何故父がそんなところに私を連れて行ったのかわかりません。父は海軍兵学校出身ではなく、旧制神戸商船学校出身でした。戦前は東京商船は郵船、神戸商船は三井というコースが決まっていたのですが、戦争が始まったため、父は卒業と同時に海軍士官になって終戦まで戦い続けていました。戦争さえなければ商船三井の客船か貨物船の船長になるはずであった父は、若い日に憧れた異国のシーメンズクラブの雰囲気に浸りたかったのかもしれません。 

 

 バーでオレンジジュースを飲みながら、父が横に座っているサンタクロースのようなひげを生やした欧米人と普段聞いたことのない言葉でしゃべっているのを不思議な思いで見ていたのを覚えています。

 そこで私は、衝撃的な体験をしました。

 ハンバーガーを食べたのです。それまでにホットドッグを食べたことはありましたが、ハンバーガーは初めてでした。マックが日本に進出する10年以上前のことです。

 こんなにおいしいものがあるのかとびっくりしたのをはっきりと覚えています。

 幼心に、ここは日本ではないと思いました。

 そして、横浜は私にとっては懐かしく、かつ不思議な街になりました。

 

 横浜の全寮制の学校で暮らした中学・高校時代、私たちはよく横浜へ遊びに出かけました。

 磯子のドルフィンというお店は、今は大きなガラス窓の立派なビルになっていますが、私たちが入り浸っていたころはオープンしたばかりの小さな平屋の喫茶店でした。居心地がよく、首都高速湾岸線も近くのマンションもなかったので、横浜港を出入りする貨物船がよく見えました。しかし、ある時、異変が起こって、気安く行ける店ではなくなりました。ユーミンの「海を見ていた午後」のヒットです。

 私たちは「晴れた日にも三浦岬は見えない」ことを知っていました。横須賀は見えますが、三浦岬という岬はありませんし、三浦半島の先端もドルフィンからは見えないのです。有料の中央自動車道をフリーウェイだと言い切ってしまう人ですから、心象風景で三浦半島の突端が見えていたのかもしれません。とにかく、私たちが気楽に出入りできる店ではなくなり、それ以来、前を通ることはあっても中に入ったことはありません。

 横浜にはいろいろな思い出があり、レイニーウッドの曲を聴くと、一瞬でタイムワープしてしまいます。