船乗りの言葉 Splice the main brace

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 この表題の意味するところを正確に訳することのできる方は、私の同業者以外にはおられないかと思います。

 大学時代に、英文学の教授に教えて差し上げたことすらありました。

 直訳すると帆船のメインマストのヤード(帆桁)を操作するために取り付けるロープを組み継ぐという意味です。

 一本の長いロープを作るのに、何本かのロープを繋ぐことを「組み継ぐ」といい、英語では"splice" と表現されます。

 かなり太くて長いロープを組み継ぎ、メインマストに取り付けなければならず、相当の重労働になります。

 潮に洗われる洋上ではロープの痛みは激しく、これが切れてしまうと時化の時などは帆桁を意のままに回すことが出来なくなって船が遭難してしまう危険があるため、航海中に何度もメンテナンスが必要になります。 

 帆船時代の英国海軍では、航海中にこの重労働を行った場合には、終了後ラム酒の特配が行わる慣習がありました。Splice the main brace というオーダーが出ると、乗組員はそのラム酒の特配を楽しみにこの重労働に耐えたのです。

 このことから、本来はメインヤードのロープを組み継げというオーダーであるはずのこの言葉の意味が転じられて、「艦内飲酒を許可する。」という意味になりました。

 現在でもNATO海軍の信号書にはSplice the main brace という信号が掲載されており、その意味は「艦内飲酒を許可する。」となっています。米海軍や同じくこの信号書を使っている海上自衛隊は「ドライネイビー」と言われ、艦内での飲酒が禁止されていますので、この信号が使用されることはありませんが、英国などでは使われることもあるようです。

 船乗りや海軍軍人の間ではこの言葉は酒を飲むという意味で使われており、”How about splicing the main brace?” というと、「一杯飲まないか?」ということになります。

 日本でも商船学校を出た船乗りであれば誰でも知っている言葉なのですが、英文学の教授や翻訳家が意外にご存じなくて驚くことがあります。海洋文学では頻出する一文ですが何故か正確に訳されていることがあまりありません。数々の海洋文学作品の翻訳を出している高橋泰邦氏ですら、「重労働だったので、船室に下りて主帆桁索を組み継いだ。」などと誤訳をしていることがあり、訳している御本人も変だなと思いながら直訳しているのでしょう。編集者もそこをちょっと調べればいいのに、そのまま出版されている本が何冊もあります。

 

 商船学校にでも問い合わせればすぐ分かることなのですが。

 

グルメ?

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 個人的な趣味で申し訳ありませんが、私はテレビの食べ物に関する番組が好きではありません。

 食べ物に関する番組と言ってもいろいろありますが、なかでも好きではないのが「大食い選手権」の類で、世界にはお腹一杯食べることのできない人々の方が圧倒的に多い中で、飢餓で苦しむ人々がこの類の番組を観たらどう思うかと考えると胸が痛みます。

 

 人気のラーメン店などを紹介する番組もあまり好きではありません。

 雑誌などを見ていると、普通のビジネスマンで、年間500食くらいラーメンを食べて評論家になっている人がいますが、これは一日一食ではできないことなので、他の追従を許さないことは否定しませんが、食に関する感覚が壊れているのだろうと推察しています。

 

 ミシュランのガイドも好きではありません。なぜなら、その評価が個人の好みだからです。

 

 料理の番組も好きではありません。

 私は調理師の資格を持っていますが、料理番組を観ていても、何もわざわざ手をかけて食材を不味くすることはないだろうにといつも思いながら観ています。

 

 なぜ私がこのように苦手意識を持ち、かつ、ミシュランのガイドがいい加減だなどと乱暴なことを言うのか疑問に思われる方も多いかと思います。

 

 それは私が料理の評価は主観的・相対的なものであり、絶対的な基準があるわけではないと信じているからです。ミシュランのガイドは、飽食した調査員の主観的な評価に過ぎません。かつて、これまでに私が最も美味しいと感じた食べ物の話を書いたことがあります。

「おいしい料理の記憶:グルメとは何だろう」

https://www.aegis-cms.com/entry/2018/12/31/132039 

 

 これはどちらもヨットで食べた想い出ですが、一方は大時化の中で飲んだインスタントラーメンのスープ、もう一方はベタ凪で半日動けずにいた三宅島沖の炎天下で、通りすがりの漁師が作ってくれたナメロウのようなものに砕いた氷を混ぜてご飯にかけただけのものです。

 

 もともと、屋外のBBQやキャンプなどでは、何を作っても美味しいのです。不思議なのですが、買ってきてそのまま食べることができるものは、普段家庭で食べてうまいと思うものでも、キャンプの時などは美味しくありません。

 しかし、素材からその場で料理したものであれば、ほんのひと手間であっても美味しく食べられるのが野外料理です。

 私が最も好きなのは、1キロくらいの牛肉のブロックを木の枝に刺し、表面に塩を塗り付けながら炙る、いわゆるシュラスコです。これとバーボンやフルボディのワインは黄金の組合わせだと思っています。

 

 かつて、先輩の陸上自衛官から聞いたことがあるのですが、彼がその人生で最も美味いと思っている食事は、ある演習中に食べたものだそうです。

 孤立して2日間補給が無く、3日目に携行していた装備品用の消耗品の箱に紛れ込んでいたレトルトのごはんとマヨネーズを見つけ、熱いごはんにそのマヨネーズをかけたものを小隊員全員で分けたのだそうです。各自スプーン2杯分ずつだったそうですが、その味が忘れられないと言って、目を潤ませていました。

 

 つまり、ミシュランガイドやその他のグルメ番組で紹介されるレストランなどは、大都会の何を食べても美味しくない極めて不利な環境において、どれだけ手間暇をかければ食べられるようになるのかという問題に過ぎず、海の真っ只中の小船や、人里離れた山の中というような手間暇を掛けなくとも美味しい料理にありつける贅沢な環境に比べれば、取るに足らないことだと思うのです。

 

 寿司などは、漁村で漁師のおかみさんが握ってくれるのが文句なく最上の味ですが、これを銀座や新宿で美味しく食べることが出来るようにするには、磨き抜かれたプロの職人の技が必要になります。要するにレストランガイドなどは、そのようなレベルの話をしているのに過ぎず、私にはあまり興味がありません。

 

 海で釣りをできない環境にいれば、釣り堀で我慢せざるを得ないのだろうな、という思いです。

フェンスの向こうのアメリカ ~横浜憧憬~

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 柳ジョージという歌手がいました。私は彼の歌が好きで、一度はライブに行きたいと思っていましたが、惜しくも亡くなってしまいました。

 私よりは年上でしたが、彼が歌う横浜あたりの景色は私もよく知っている風景です。

 

 本牧から磯子にかかる一帯、米軍の官舎などが沢山あり、米海軍補給部隊の事務所などがあった根岸、あるいは昭和30年代の日活の映画などに度々登場していたスターダストなどいうバーがある瑞穂埠頭など、私が子供の頃の横浜の風景を彼はよく歌っていたものです。山下公園の根本にバンドホテルというホテルがあり、最上階にダンスフロアがあって、生バンドが入っていたころの話です。(もちろんそんなところに行った経験があるほどの年ではありません。看板を見ていただけですが。)

 60年代、70年代というのは不思議な時代で、安保条約をめぐって壮絶な学生運動が展開され、日本中が反米帝国主義の声に満ち溢れている一方で、若者たちはアメリカの文化に憧れ、アメリカの豊かさをうらやましがった時代でした。

 柳ジョージが歌った「フェンスの向こうのアメリカ」という曲もその頃のある種屈折した思いが根底にあるのかもしれません。

 

 なぜ私がそのような光景をよく覚えているのかと言えば、海上自衛官であった父が横須賀で勤務することが多く、私たち家族が住む官舎が横浜と横須賀の境にあり、幼いころ、父の休日などに横浜に連れて行ってもらうことがよくあったからです。

 中学・高校は横浜の全寮制の学校に入学し、学校の寮生活の休みの日は、ほとんどの級友が家へ帰ってしまうのに、父の転勤で両親がたまたま地方にいたので帰ることができず、横浜あたりをウロウロすることが多かったため、余計にその光景を覚えているのでしょう。

 その横浜の本牧埠頭に「シーメンズクラブ」というレストランがありました。(今もあることはあります。)その名のとおり、海員クラブで、横浜港に入港した船乗りが食事をしたり、お酒を飲んだりする場所です。

 幼稚園に通っていたころですから、昭和35年くらいだと思いますが、ここに父に連れられて行ったことがありました。その頃、母が長期に入院しており、そのため父も陸上勤務になって、日曜日などは遊んでくれることが時々あったのです。

 洒落たレストランで、入るとすぐにビリヤードの台がいくつも置いてあり、その向こうにはピンボールゲームの機械がたくさん並んでいました。そこを通り抜けるとバーがあり、バーの奥にレストランがありました。レストランというのは、デパートの上の方にあるものとばかり思っていた当時の私には極めてショッキングな光景で、映画で観る外国のようだと思いました。

 当時、横浜港を出入りする外国船の士官はほとんど欧米人で、シーメンズクラブにいたのも欧米人がほとんどだったように思います。

 何故父がそんなところに私を連れて行ったのかわかりません。父は海軍兵学校出身ではなく、旧制神戸商船学校出身でした。戦前は東京商船は郵船、神戸商船は三井というコースが決まっていたのですが、戦争が始まったため、父は卒業と同時に海軍士官になって終戦まで戦い続けていました。戦争さえなければ商船三井の客船か貨物船の船長になるはずであった父は、若い日に憧れた異国のシーメンズクラブの雰囲気に浸りたかったのかもしれません。 

 

 バーでオレンジジュースを飲みながら、父が横に座っているサンタクロースのようなひげを生やした欧米人と普段聞いたことのない言葉でしゃべっているのを不思議な思いで見ていたのを覚えています。

 そこで私は、衝撃的な体験をしました。

 ハンバーガーを食べたのです。それまでにホットドッグを食べたことはありましたが、ハンバーガーは初めてでした。マックが日本に進出する10年以上前のことです。

 こんなにおいしいものがあるのかとびっくりしたのをはっきりと覚えています。

 幼心に、ここは日本ではないと思いました。

 そして、横浜は私にとっては懐かしく、かつ不思議な街になりました。

 

 横浜の全寮制の学校で暮らした中学・高校時代、私たちはよく横浜へ遊びに出かけました。

 磯子のドルフィンというお店は、今は大きなガラス窓の立派なビルになっていますが、私たちが入り浸っていたころはオープンしたばかりの小さな平屋の喫茶店でした。居心地がよく、首都高速湾岸線も近くのマンションもなかったので、横浜港を出入りする貨物船がよく見えました。しかし、ある時、異変が起こって、気安く行ける店ではなくなりました。ユーミンの「海を見ていた午後」のヒットです。

 私たちは「晴れた日にも三浦岬は見えない」ことを知っていました。横須賀は見えますが、三浦岬という岬はありませんし、三浦半島の先端もドルフィンからは見えないのです。有料の中央自動車道をフリーウェイだと言い切ってしまう人ですから、心象風景で三浦半島の突端が見えていたのかもしれません。とにかく、私たちが気楽に出入りできる店ではなくなり、それ以来、前を通ることはあっても中に入ったことはありません。

 横浜にはいろいろな思い出があり、レイニーウッドの曲を聴くと、一瞬でタイムワープしてしまいます。

 

 

 

スピード違反の演奏

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 オオサカ・シオン・ウインド・オーケストラという楽団があります。

 何かフランス語のようにも聞こえますが、日本語で書くと大阪市吹奏楽団となります。

 もともと大阪市に所属する吹奏楽団で、大阪市音楽団という名称で親しまれてきましたが、数年前に市の行政改革の一環で自治体丸抱え楽団ではなくなり、民営化されて社団法人となりました。しかし「市音」として親しまれてきた伝統を引き継ぐため、「シオン」として名前を残しています。

 

 私は大阪出身ではありませんが、縁があってこの吹奏楽団の応援団入っています。

 

 ここで、音楽における指揮者の存在の大きさを改めて感じさせられたことがあります。

 

 民営化が決まったとき、これから世間の荒波と闘っていかなければならない音楽団を激励するためのコンサートが開かれました。といっても演奏するのは音楽団側で私たちはそれを聴きにいくのですが、とにかくファンは集まろうというイベントでした。

 

 私は湘南に住んでいるのですが、ファンクラブのメンバーとして大阪まで出かけ、会場の準備やお客様の案内などに当たっていました。

 

 5月の大阪城公園野外音楽堂です。

 

 ステージでは音楽団がリハーサルを繰り返していました。

 この激励会を企画して呼びかけたのは、音楽家の宮川彬さんでしたが、リハーサルはイベントを企画する事務所の担当者が指揮棒を振っていました。

 

 そこでブラスバンドの定番曲であるアルフレッド・リードの「アルメニアンダンス」を何回もリハーサルで演奏しているのですが、これが横で作業をしながら聴いていても、「アレッ?」という演奏なのです。

 

 「市音って、こんなに下手くそだったっけ?」と思うほどで、これほどかったるい「アルメニアンダンス」は聴いたことが無い、これじゃぁ高校のブラスバンドに負けてる・・・という思いで聴いていました。

 

 さて本番が始まり、満員どころか立ち見でもなかなか見えないほどお客様が入場し、凄い熱気に包まれました。

 

 発起人の宮川彬さんが現れ、軽妙なトークで笑わせたりしんみりさせたりしながらのコンサートが始まりました。

 

 宮川さんの指揮で実際に演奏が始まってみると、大阪市音本来の実力を発揮し始め、「さすが・・」と思いながら聴いていましたが、途中で宮川彬さんがとんでもないことを言い始めたのです。

 

 サプライズゲストとして佐渡豊さんが来た、というのです。

 

 当の佐渡豊さんが満場の大喝采に迎えられて現れ、ステージで宮川さんと大阪市音との関係について語り始めました。

 バーンスタインに弟子入りする前、まだ名前が知られていない若い頃に大阪市音を振ったことがあって、とても印象に残っているのだそうです。

 

 そして、特別に一曲振ることになり、そこで指揮台に上って始めた曲が「アルメニアンダンス」だったのです。

 

 ここで大阪市音楽団は一瞬にして別物になりました。

 リハーサルでトロトロとだるい演奏をしていた楽団とは思えない、凄まじいパワーを爆発させ始めたのです。

 それは佐渡豊さんの指揮棒の動きが全く違っていたからだと思います。

 佐渡さんは開演直前に到着したので、リハーサルを振っていません。

 しかし、音楽団はさすがにプロなので、佐渡さんの思いが瞬間に伝わったのでしょう。

 

 佐渡さんの指揮は、これほど荒っぽい指揮があっていいのかと思うような指揮で、それまでに聴いたどの「アルメニアンダンス」よりもアップテンポで、「アルメニアンダンスってこんな曲だっけ?」と思うような引っ張り方です。

 例えて言えば、40キロ制限の道を100キロで飛ばしているような演奏なのです。

 音楽団にとってもあのテンポで演奏したことはかつてなかったでしょうが、指揮者の思いをそのまま見事に音にしています。プロとはそういうものかと改めて思いました。

 

 演奏している楽団員の感極まった思いはステージの下まで伝わってきます。

 パーカッションの女性などは遠目にもワンワン泣きながら叩いているのが分かります。

 

 聴いている方もグイグイと引きずり込まれ、終わった瞬間に爆発的な拍手が起こりました。

  同じ曲でも指揮者が変わるとここまで変わるのかと愕然とするような思いで知った瞬間でした。

 

 それ以降、同じ曲を同じオーケストラが違う指揮者で演奏しているCDの聴き比べに関心を持っています。

 

 昔からベームカラヤンの対比などは興味深いとは思っていましたが、この「アルメニアンダンス」以降、音楽の聴き方が少し変わったようにも思えます。

 

 皆様も是非一度、このような聴き方をされることをお薦めします。

 思わぬ発見があって、世界が広がるような思いをします。

 

 ちなみに、私たちが呆気にとられた「アルメニアンダンス」はYouTubeに投稿されています。手持ちカメラでの撮影らしく映像としては良くありませんし、音も良くないのですが、臨場感だけは伝わってきます。

 

 https://www.youtube.com/watch?v=FvX8NeY97II 

 

ノブレス・オブリージュ 高貴さは義務を強制する

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 昨年、イギリス王室のヘンリー王子(英国人はハリー王子と親しみを込めて呼んでいるようです。)と米国人の女優メーガン・マークルさんの婚礼の儀式が挙行されました。

 歴史的に古い王室を持つ国の国民としてもお祝いを申し上げたいと思います。

 

 ヘンリー王子は結婚によりサセックス公ヘンリー王子の称号を女王から授けられたと聞いていますが、19世紀以来絶えていたサセックス公爵位が復活したことになります。

 

 結婚式において印象的であったのは、王子がシンプルな軍服に身を包み、メーガンさんのドレスも極めてシンプルなデザインだったことです。

 “ Simple is the best policy “ を標語としている私の眼には極めて好ましく映りました。

 

 何故英国王室の王子は結婚に際して軍服を着用するか、皆様ご存知でしょうか。

 

 恰好いいとかいう問題ではありません。

 

 それは「ノブレス・オブリージュ(フランス語ではnoblesse oblige ですので、高校の時の第2外国語のうろ覚えの知識ではノブレソブリージュになると思うのですが、どなたか教えて頂けませんか?)の現れです。

 

 つまり「高貴さは(義務)を強制する」ので、国難に際しては一軍人として祖国のために戦う決意があるということを表明しているのです。

 

 現にヘンリー王子の叔父さんにあたるヨーク公アンドルー王子はフォークランド紛争に際して海軍の艦載ヘリコプターの副操縦として従軍し、空母インビンシブルに乗艦して警戒任務に就いています。

 

 このあたりが公家的伝統を持つ日本の皇室とは異なると思われる方も多いかと思いますが、実はそうでもありません。

 戦前は直系の皇位継承者を除き、男子の皇族が軍人になることは珍しくなく、昭和天皇の弟君であった高松宮殿下は海軍軍人で大佐で終戦を迎えられています。

 高松宮については、一日でも早く終戦とすべきとして皇族にしては珍しく政治的工作をされたことが戦後分かりました。

 

 高松宮殿下は海上自衛隊にも親近感をもって頂いていたようで、幹部候補生学校の私たちのクラスは卒業して任官した後、練習艦で洋上実習の途次、晴海に入港した際、高松宮邸にお招きを頂き、庭での小宴の際に、各テーブルを回ってこられた殿下に声を掛けて頂くという機会を頂きました。

 

 ところでヘンリー王子が着用された軍服は何の軍服かご存知でしょうか。

 たまたま私は同じ軍服をこの目で見たことがあるので、テレビの映像を観てすぐに分かりました。

 ヘンリー王子の軍服は近衛騎兵連隊の「ブルーズ・アンド・ロイヤルズ」の制服であり、同連隊は近衛連隊ではありますが、バッキンガム宮殿の警備と儀礼だけにあたる連隊ではなく、実際の戦闘任務にも投入される部隊です。

 したがって、バッキンガム宮殿の近衛兵のような派手な制服ではなく、極めてシンプルで精悍な制服になっています。王子は陸軍士官学校を卒業後、この連隊において最初の任務に就いていたそうです。

 

 一方で、聖ジョージ教会の前で王子を出迎えたダークグリーンの制服を着用した軍人たちは王立グルカライフル連隊の隊員であり、ネパールの山岳民族を中心に編成されるグルカ兵からなるこの連隊は、その勇猛さにおいて英国陸軍随一の伝統を持つと言われ、ハリー王子はこの部隊の一員としてアフガニスタンの作戦に従軍されています。

 

 たしか数年前に陸軍を大尉で除隊されたはずなのですが、少佐の階級章を付けているところをみると、現役は退いたものの、有事の際にはいつでも復帰できるように予備役に留まり、その間に昇任されたのでしょう。

 

 私も結婚した時は海上自衛官でしたので、結婚式及び披露宴には制服で臨みました。

 特別礼装という礼装があり、5月でしたので袖に階級章のついたネイビーブルーのディナージャケット風の上下にカマーバンドと黒の蝶ネクタイを付けていました。

 

 一人で更衣室で礼装に着替えていたら式場の担当のオバさんが現れ、私が黒の蝶ネクタイを付けているのを見て、葬式じゃああるまいし、それじゃ新郎新婦に失礼だと言い出したので、私が新郎であることを伝えると呆れたような顔をして、すぐに白い蝶ネクタイを棚から出してきました。

 袖の階級章を見せて、これは制服なので白いネクタイはできないのだと説明すると、納得がいかないらしく、それではと言ってスズランの花を持ってきたので、本当は服装規則違反なのですが、好意を受けることにして胸にスズランの花をつけて式に臨んだのを覚えています。

 

 まあ、イギリス王室の王子の結婚式と違い、海上自衛官の結婚式における花婿などは刺身のツマ以下の存在で、圧倒的な主人公は花嫁ですので、私が何を着ていたのかなどどうでもいい話ではありますが、軍服を着用した新郎に寄り添う新婦を見ていると、つい30数年前を思い出したりします。

ワインのお話

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 昭和の時代、ワインはまだ高くて家庭で飲むのに適したワインはあまり種類が多くありませんでした。

 

 平成も終わろうとしている現在、本当にワインが安く手に入るようになり、家庭でも気軽に楽しめるようになりました。

 

 我が家でも毎日飲んでいます。昼食時に飲むことはほとんどありませんが、夕食を家で食べる時には必ずワインが出ています。毎日なので上等なワインは買えませんが、安くても美味しいワインがたくさんあります。

 

 若い頃に海上自衛隊の連絡官として米国に駐在していた際、ホームパーティで大勢の方を招待する時は必ず大量のワインを用意しておく必要があり、そういう場合は高級なものでなくとも構わないのでボックスワインを買っておくと、ゲストが勝手にグラスを持って行って自分で入れてくれるのですが、その時に見つけたコストパフォーマンスが高いテーブルワインがあり、帰国後、日本でも売っているのを見つけて、それ以後、我が家のテーブルワインとなりました。もう25年以上飲み続けていることになります。

 

 普段、その安いテーブルワインばかり飲んでいるので、たまに誰かから頂いたり、外食でいいワインを取ったりするととても美味しく感じられる次第です。

 

 

 初めてワインが美味しいと思った時のことは今でも鮮やかに覚えています。

 

 大学生でヨットの外洋レースに熱中していた頃、乗っていた船ではワインがよく飲まれていましたが、それほど美味いとも思わずに飲んでいました。というよりも、レース中は我々学生クルーなどはガレー船の奴隷に等しいので、うっかりワインなどでいい気持になっていると後が大変なのです。

 

 それがある時、油壷(三浦半島の古くからヨットの泊地として利用されてきた、その名のごとく油を流したように波一つ絶たない静かな湾です。)に入港してきたアメリカ人のヨットの世話をするようになって事情がちょっと変わりました。

 

 退役した空軍中佐とその奥様二人で太平洋を巡航中に日本に寄港し、油壷にしばらく停泊していたのですが、同じく油壷で仲間の船の整備を手伝っていた私が、その夫妻の面倒を見ることになりました。

 

 整備に行くたびに声を掛け、近くのスーパーに車で買い物に行き、日用品や食料を買い込んでくるのを手伝うのです。当時、油壷周辺のスーパーではピクルスやライムなどが手に入らず、それらのものを私の家の近くで手に入れて持って行ったこともありました。

 

 ある時、他のクルーが来なくて仲間の船に入ることができず、その整備ができないことがあり、米人夫婦の船のニス塗りを手伝ったことがあります。その時、奥様が昼食だと言ってデッキに持ってきたのが、キャビンで焼いたばかりのパンと大きなチーズの固まり、そして壺に入ったワインでした。

 

 フランスからの移民の子孫である奥様の日常の簡単な食事なのだそうです。日本で言えば、ご飯と漬物とみそ汁の三点セットなのでしょう。

 

 平日の誰もいない静かな油壷湾の一番奥、大型のヨットのデッキ上で、初老のご夫妻と三人だけで取る昼食。ワインがこれほど美味いものとは知らなかったのですが、完璧な昼食でした。

 

 このご夫妻は2か月ほど日本に滞在し、シアトルへ戻るために出航していきました。油壷を出発する日、私たちは夕方まで伴走し、房総半島の沖合で手を振って別れました。

 

 別れ際、御馳走になった昼食のワインが今までで一番美味しいワインでした、と告げると、奥様が「私たちもよ。」と言って微笑み、元空軍中佐が大きく頷いた顔が夕陽に染まっていたのをつい昨日のように思い出すことがあります。

 

 

司令官の女房は・・・

 

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 国民性というものを比較するととても面白いことは皆様もご存知かと思います。

 この国民性の違いはジョークにもなっています。

 かつて聞いたジョークで、なるほどね、と思ったものを一つご紹介します。

 

 各国のビジネスマンを集めた商談会が地中海を航行するクルーズシップの船上で開催されました。地中海の各地を回りながら、現地の産業を研修する企画です。

 ギリシャ人船長が運航するこの船がエーゲ海を航行中、船火事を起こしたため、早く総員を退船させなければならなくなりました。

 商談会に参加していた各国のビジネスマンが退船する頃には救命ボートは他のお客さんを乗せて海面に降ろされており、ビジネスマンたちは海に飛び込まなければならなくなりました。

 ギリシャ人船長は、尻込みするビジネスマンを回って説得に当たります。

 

 アメリカ人ビジネスマンには、

 「飛び込むと英雄になれますよ。」

 

 イギリス人ビジネスマンには、

 「飛び込むと紳士になれます。」

 

 ドイツ人ビジネスマンには、

 「この場合には飛び込むのが規則です。」

 

 イタリア人ビジネスマンには、

 「飛び込むと女の子にもてますよ。」

 

 日本人ビジネスマンには、

 「みんな飛び込みましたよ。」

 

 韓国人ビジネスマンには、

 「日本は飛び込むようですよ。」

 

 これで目出度く総員が救助されたということでした。

 

 

 各国の国民性が、そう言われればそうだよね、と思わされます。

 

 一方で、私は国が違っても変わらない普遍の真理をかつて発見したことがあります。

 いずれ、これをテーマに社会学の論文でも書こうかと思っています。

 

 米軍の連中と話をしているときに、何気なく「日本では司令官の女房は司令長官と呼ばれるのだけど、そっちはどう?」と聞いてみたのですが、即座に返ってきた答えが、「「俺たちだけだと思っていたら、サムライの国の日本もそうか?」

 

 いろいろな国の海軍が一堂に会して演習を行うためにハワイに入港した際、レセプションで会ったイギリス、オーストラリア、ニュージーランドの海軍も同様の返事でした。

 別の機会に会ったカナダの軍人は、誇らしく「それは間違いない。うちの女房は偉い」と断言しました。

 

 ロシア海軍300周年観艦式に参加のためウラジオストックに入港した時、ロシア太平洋艦隊旗艦「アドミラル・パンテレーエフ」の艦長に同じ質問をし、米、英、豪、加なども同様であると伝えたところ、彼は驚いたような顔をして、「西側でもそうか・・・・」とつぶやきました。

 この時は韓国海軍も隣に入港していたので、その艦長に同じ質問をしたところ、恥ずかしそうに「少なくとも私の家ではそうだ。」と言いました。

 その隣に入港していた中国海軍の司令部幕僚に聞いたところ、彼は英語が話せなかったので、通訳を通じて聞いたのですが、質問を理解できないようでした。

 

 これまで、その他のいろいろな海軍の軍人に同じ質問をしてきましたが、明確にそうではないという返事は一度も聞いたことがありません。

 機会があれば、陸軍の軍人に聞いてみたいと思っています。