8点鍾

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 「8点鍾」と聞くと、モーリス・ルブランのアルセーヌ・ルパンを思い出す方が多いかと思います。8つの短編をまとめると一つの物語となるという凝った構成で、各短編に出てくるトリックも極めて高く評価されています。

 

 私は海と船を描かせたら最高の画家だと思っているウィンスロー・ホーマーの「8点鍾」を思い浮かべます。二人の船乗りが大時化の海で六分儀を構えて天測をしているところを描いたものです。

 大時化の海で、僅かに覗いた太陽を測って経度を算出しているのでしょう。

 ブルックリン美術館にあるそうですので、一度見てみたいと思っています。

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 アリステア・マクリーン原作の「8点鍾が鳴る時」を思い出す方もいらっしゃるでしょう。

 寮生活をしていた高校生の頃、週末の夜、寮のベッドに寝転がってアリステア・マクリーンの冒険小説を読むのは大きな楽しみでした。

 

 では、この8点鍾とは何か、ということになります。

 船には時鍾と呼ばれる鐘が装備されています。

 

 この鐘は時鍾と呼ばれるくらいですから、船内に時間を知らせるために古くから用いられてきたものです。

 午前0時を起点として、30分ごとに決められた鳴らし方をしています。順番に1点鍾、2点鍾と鳴らしていき、4時間後に8点鍾を鳴らし、元に戻ります。

 点鍾は基本的には短音と長音の組み合わせで、短音は「カン」と聞こえ、長音は「カーン」と聞こえます。

 

 1点鍾は「カン」、2点鍾は「カン、カーン」、3点鍾は「カン、カーン、カン」、4点鍾は「カン、カーン、カン、カーン」という具合です。

 

 船では4時間で当直交代が行わるのが普通なので、8点鍾がなると当直交代なのです。

 したがって、8点鍾は04:00、08:00、12:00、16:00に鳴らされることになります。

 ところが、この後に面白いことが起こります。

 16:00に8点鍾が鳴らされ、16:30には1点鍾に戻るのですが、18:00に4点鍾が鳴って18:30に5点鍾が鳴るかと思うとそうではないのです。

 18:30分にはまた1点鍾に戻ってしまいます。そして19:00に2点鍾、19:30に3点鍾が鳴らされ、20:00に今度はいきなり8点鍾になるのです。

 

 何故この時間帯だけ不規則な鳴らし方をするのかが、船乗りの世界の面白いところです。

 夕方になって海坊主に襲われないように、機会を窺っている海坊主を騙すために間違った点鍾を聞かせるためだと言われています。

 

 クロノメーターと呼ばれる船用の正確な時計ができる遥か前、船内で時間を測るのは当直員の重要な役目の一つで、標準的に積まれていた30分の砂時計をひっくり返すたびに点鍾を鳴らしていたのです。

 

 船内に時計が取り付けられ、どこにいても時間が分かるようになってからは、この点鍾は時鍾としての役目はなくなりましたが、視界不良時に自船の位置を他船に知らせるために鳴らすということは現在も行われています。

 法定備品ですので、船は必ず積んでいなければなりません。

 

 現代ではレーダーが小さな釣り船にも装備されるようになり、点鍾が鳴らなくとも近くに船がいることは分かるのですが、それでも濃霧にまかれて何も見えないとき、霧のカーテンの向こうからかすかに点鍾が聞こえることがあります。

 

 小さなヨットで濃霧にまかれて何も見えないとき、とても心細い思いをします。この時に点鍾が聞こえてくると、近くに船がいるということなので、本当は衝突の危険があって安心してはいられないのですが、「向こうにも船乗りがいるなぁ」と何となくホッとするのが不思議です。

 こちらも負けずに点鍾を打ち、こちらにも船がいることを相手に知らせます。

 

 かつて、大型タンカーの船長を長く勤めた古い船乗りの告別式に参列したことがあります。

 出棺の際に商船学校の後輩たちがこの8点鍾を鳴らしたのがとても印象的でした。

 

 8点鍾が鳴ると当直を交代するのです。

 後輩たちが、後は自分たちに任せてくれと言っているのでしょう。

 

 伝統を大切にする船乗りらしい見送りだなぁと思いました。