安全なる航海を祈る 横浜憧憬 その2
以前に、柳ジョージの歌を聴いていて横浜が懐かしくなり、横浜にまつわる思い出を書いたことがあります。(バックナンバーからお読みいただけます。
フェンスの向こうのアメリカ ~横浜憧憬~ - 珈琲で始まり、ドライマティーニで締めくくる心豊かな一日 )
今回はその続きです。
前回は柳ジョージの歌に触発されたので、場面は本牧から磯子あたりでしたが、今回はもう少し北に上っていきます。
私は学生時代を江の島で過ごしました。江の島にあるヨットハーバーを母港とする当時外洋レース界ではかなり名を知られたレース艇のクルーとして、週末だけではなく、平日もよく江の島に通っていました。我が家からは原付なら10分程度で行ける距離だったので、本当によく通ったものです。
学校を卒業してからは横浜に通うことが多くなりました。海上自衛官となり外洋レースを続けることができなくなったため、ヨットライフの拠点を移したのです。
あるご縁で山下公園と本牧ふ頭の間にクラブハウスを持つヨットクラブのメンバーになりました。実際に船を出すことはあまりなくなりましたが、このヨットクラブのバーでヨット仲間と会話を交わすのがささやかな楽しみとなりました。
しかし、このクラブのあるハーバーから出航する時、振り返ると港の見える丘公園にある横浜気象台に旗が上がっているのがよく見えました。当日の風などを知らせているのです。
このハーバーに通うためには、JR石川町駅で降りて元町を通り抜け、山下公園の根本から少し本牧方面に歩く必要があります。周りは殺風景な保税倉庫などが建っているところですが、私にとっては懐かしいいろいろな想いでのある場所です。
したがって、元町や港の見える丘公園は私にとっては馴染み深い景色でもあります。
我が家の司令長官(家内です。)は、この港の見える丘公園に昔からある、ハマトラの元祖のようなお嬢様が通う女子大学を卒業していますので、彼女にとってもこの地区は懐かしい場所になっているはずです。
港の見える丘公園へはいろいろな行き方がありますので、その時の目的に合わせたコースを取るのがいいかと思いますが、一般的なのはみなとみらい線の中華街駅から直接エレベータで上がってしまうコースでしょう。みなとみらい線ができる前は、私たちは元町を通り抜けて、外人墓地を横に見ながら坂を登ったものでした。
公園のそばには、山の手十番館などのレストランやカフェが多数あり、また、無料で見学できる洋館もいくつかありますので、散歩にはとてもいいところです。
この港の見える丘公園には仕事上の想い出もあります。
海上自衛隊を退官し、専門技術商社の営業部長となった時、私が扱っていた商品にLEDの照明がありました。これを横浜市の求めに応じて公園に寄贈したのです。
当時、スタジオジブリのアニメーション映画で『コクリコ坂から』という作品がヒットしていました。
この映画のヒロインの少女が、沖を行くボーイフレンドの乗った船に向けて「安全なる航海を祈る」という意味を持つ旗を掲げるシーンが話題となり、この作品の舞台とされる横浜市が港の見える丘公園にその旗を掲げるボールを立て、旗を掲げたのです。
その場所が観光スポットとして有名になったのですが、夜、カップルが記念写真を撮ろうとすると、ポールは写るのですが、肝心の旗が写らないのだそうです。
横浜市の観光局がそれで困っていたところ、私たちがLEDの投光器を市の体育館や学校で使ってくれないかと売り込みに訪れたのです。担当者から困っている実情を訴えられ、地元企業として少しでもお役に立つのならという判断から、LEDの投光器を寄贈することにして、見事にその旗がライトアップされることになりました。
この旗は船舶の通信に使用される世界共通の旗で、国際信号書に規定された信号を使っています。国際信号旗の文字旗のUとWを組み合わせて掲揚するもので、元々は民間船から敬礼を受けた軍艦が答礼の意味で掲げたものですが、現在では一般に「ご安航を祈る」という意味で使われています。
ところが、私はこの映画のポスターを一目見た時に凄まじい違和感を覚えました。
時代設定が昭和38年とあります。東京オリンピックの前年です。そして、少女が国際信号旗の数字旗の1と文字旗のUとWを組み合わせてポールに揚げている絵が描かれています。
これは宮崎駿監督の間違いです。
UWが「安全なる航海を祈る」を示し、それに数字旗の1を付け加えたUW1は「ご協力に感謝する。ご安航を祈る。(Thank you for your cooperation, bon voyage)」という意味になります。しかし、1UWは意味を持ちません。
しかも、昭和38年当時、「安全なる航海を祈る」という信号はUWではありませんでした。WAYという三文字が使われていました。
この程度のことは、海上保安庁なり商船大学なりにちょっと聞けば丁寧に教えてくれます。監督以下、誰もしっかりとした事実を確認せずに作ってしまったのでしょう。
しかし、私がそんなことを指摘してみてもつまらない話ですので、市の担当者には黙っておき、私自身は、「これは主人公の海という少女と俊という少年の間にだけ意味を持つ特別な信号なのだ。」と解釈することにしたのです。
最近は港の見える丘公園をのんびり散歩するなどという余裕がないのですが、時々ヨットクラブに出かける際に、下から見上げて旗がはためいているのを眺めます。
とにかく、横浜にはいろいろな想い出があります。
ティファニーで朝食を
昨年、何かの記事でニューヨークのティファニーにレストランが開業したというニュースを読みました。
この記事によると朝食もサービスするようですので、文字通り「ティファニーで朝食」が食べられるようになりました。
昭和の時代、ニューヨークに行ったことのある人は知っていたはずですが、そうでなければティファニーという高級宝石店にはレストランがあると思い込んでいた方が多かったでしょう。
私は全寮制の中学・高校で暮らしており、週末には少ない小遣いをやりくりして300円で3本の映画を観ることができた名画座に通っていたので、オードリー・ヘプバーン主演の『ティファニーで朝食を』を観ており、それがウィンドウを眺めながら紙コップのコーヒーとクロワッサンで取る朝食であることを知っていましたが、どうも高校生には主人公の気まぐれなホリーという女性の心情がよくできない映画でした。
しかし、彼女が窓際でギターを弾きながら歌う「ムーンリバー」という曲は非常に印象深い曲でした。
中高生の頃は英語の劣等生でしたが、そこの学生は例え劣等生でも英語だけはできるのだろうと世間から思われていた大学に入ったため、嫌でも授業やゼミで英語と付き合うことになりました。
仕方なく英語の勉強を渋々始めざるを得ませんでした。
といっても、映画を極力字幕を読まずに観るといったレベルの話なのですが、この頃から原書をよく読むようになりました。
ある時、神田の古本屋でトールマン・カポーティの” Breakfast at Tiffny’s” を見つけて買って帰り、大学への通学片道1時間45分を使って読み始めたのですが、どうも原作と映画はかなり内容が異なっています。
そもそも主人公のホリーという高級娼婦はオードリー・ヘプバーンのように可憐ではなく、もっとしたたかで、さらには「ティファニーで朝ご飯を食べられるくらいにお金持ちになっても・・・」というセリフはあっても、映画で有名になったウインドウを覗き込みながらデニッシュを食べるシーンは原作にはありません。
また、映画ではいなくなった猫を見つけて雨の中でジョージ・ペパード扮する作家と二人で抱きしめるハッピーエンドのシーンで終わっていますが、原作では猫は見つからず、ホリーは南米へ行ってしまい、しばらくたって作家がある家の窓辺で寛いでいる猫を見つけて、ホリーも同じように安住の地を見つけていればいいなと思うところで終わるという終わり方になっています。
原作と映画が異なることはよくあることですが、この作品の場合、原作と映画が逆だったらどちらも全く売れなかったでしょう。
映画はオードリー・ヘプバーンの魅力を目いっぱい引き出していますし、原作は1960年代の新たな女性像を切なく描いています。
文芸小説が映画化された場合、その原作を読んでみるというのは意外に面白いものですので、お薦めです。
翻訳されていないけれどもとてもいい小説も山ほどあります。
また、専門書は翻訳されていない本の方が圧倒的に多く、また、論文はほとんど翻訳されないので、どうしても原文に当たらざるを得ません。
これらをしっかりと読めるかどうかで、専門家としても幅の広さが変わってきてしまいますので要注意です。
困ったことに、私の専門の危機管理などはドイツでびっくりするような研究が進んでいるのですが、なかなかその論文には手が出せません。
学生時代にもっと勉強しておけば良かった・・・と悔やんでも始まりませんが、やはり日本語を読むのとはスピードが異なり、じれったい思いをしています。
「後悔先に立たず」というのは至言ではありますが、その意味が分かるようになった時には手遅れという「迷言」なので困ってしまいます。
ちなみに、かつて海上自衛隊の連絡官として米国に駐在していた頃、ニューヨークのティファニーへ行ったことがあります。
息子が小さかったのでお目当てはティファニーの隣の大きなおもちゃ屋さんだったのですが、前を通りかかったので覗いてみました。
オードリー・ヘプバーンの大ファンである我が家の司令長官がショーウィンドウを覗き込んでいるのは見ていて可笑しかったのですが、入ったすぐにあったショーケースに500ドルもするカバのペンダントが置いてあってびっくりしたのを覚えています。
歌の先生
自慢ではありませんが、かつて仕事で歌を教えていたことがあります。
と言うと学校時代の同期生などは頭の中が?マークだらけになってしまうのですが、本当のことです。
そもそも学校を出てから自衛隊に入って、その後商社マンになり、今はコンサルタントか何かやっているはずなのに、歌の先生はどこでやっていたのかと疑問に思っているはずです。
海上自衛隊で幹部候補生学校を卒業して任官し、初めての艦隊勤務で護衛艦に乗組んだ時、若い幹部はいろいろな係を命ぜられます。本来の固有の専門的な配置のほかに、船の中で果たさなければならないいろいろな仕事を命ぜられるのです。
例えば甲板士官というのは、艦内の整理整頓、規律の維持に全責任を負わされる大変な係ですし、体育係士官は乗員の健康管理のために計画的に乗員に運動をさせなければならず、部隊対抗の柔道や剣道、水泳、持久走など様々な体育競技に勝てるよう指導をしなければならないので、これも大変です。
また、広報係士官というのもいて、体験航海や一般公開の際にはその広報要領を立案せねばならず重要な役割を担っています。
このように航海、射撃、機関などの固有の配置のほかにいろいろな役割があり、乗組みの若手幹部はそれらの係士官をいくつも抱えているのが普通です。本業の仕事を覚えるだけでも大変なのに、多くの部下を抱え、その人事業務も行いつつ、それらの係士官としての仕事もこなしていかなければならないので、護衛艦乗組みの若手士官の多忙なことと言ったらヘタなブラック企業など足元にも及ばないものがあります。
そのいくつも抱えている係士官の中で、隊歌係士官というものになったことがあります。
軍隊では士気の高揚や団結の強化のため軍歌を歌わせることはよく行われます。自衛隊は軍隊ではないので軍歌とは言わず隊歌といいますが、その隊歌の訓練を計画し、指導するのが隊歌係士官の任務です。
乗員は日常は訓練や機器の整備などで忙しいのですが、長い航海に出ると、できる整備にも限りがあり、訓練ばかりだと緊張が長続きしません。配置によっては航海中一切外に出ない乗員もいます。そこで気分転換を兼ねて当直についている者以外総員を甲板上に集め隊歌訓練をすることがあります。その指導をするのが隊歌係士官です。
ただの気分転換だけではなく、護衛艦隊の各艦が一堂に会する集合行事が年に一度行われ、その一連の行事の中で様々なイベントが行われるのですが、隊歌競技会というのも開かれ、隊歌優秀艦のタイトルを争うものでもあるため、訓練でもあるのです。
ある船で私はその隊歌係士官を1年間務めたことがあります。その船の私の配置も、ひとたび出港すると艦内の奥深いところで指揮をとるのが仕事でしたので、たまに後甲板で潮風に吹かれるのも悪くありませんでした。
歌唱指導と言っても特に基礎的な音楽教育を受けていなければできないというものではありません。乗員を整列させ、「隊歌集○○ページ『艦隊勤務』 隊歌用意、前へ進めっ!」などと号令をかけ、乗員が大声で歌っている最中には「声が小さい!」「全く聴こえん!」とか叫んでいるだけなのですが、しかし、これが誰にでもできるというものではありません。
候補生学校で毎朝号令をかける訓練を行い、若い幹部らしく元気いっぱいに気合が入っていないと全く様にならないのです。海風の中で、全乗員が歌う声より大きく張りのある声で気合を入れなければならないので、士官室でも元気のいい若手幹部が選ばれます。
つまり、仕事で歌を教えていたというのは、嘘ではありません。
事実と真実はかならずしも同一とは限らず、微妙に異なることがあります。私が仕事で歌の指導をしていたというのは、事実に反しているわけではありませんが、真実かと問われると、本人にとっても「?」です。
それでも、若かったある一時期、若くなければできない仕事を無我夢中でやっていた頃を懐かしく想い出す「仕事」ではありました。
勇敢なるスコットランド
タイトルのScotland the Brave(勇敢なるスコットランド) という曲をご存知の方は多いかと存じます。
申すまでもなく、スコットランド国歌として扱われている曲であり、カナダのブリティッシュコロンビア連隊の公式行進曲でもあります。
私がこの曲を初めて聴いたのは、中学か高校生の頃に観た映画の中でした。
全寮制の中学高校に入学し、両親が遠隔地にいたため週末に帰宅できず、乏しい小遣いをやりくりして3本300円で観ることのできる名画座と呼ばれた映画館によく出入りしていたものでした。その中の一本で、この曲を初めて聴いたのです。
“Devil’s Brigade” というアメリカ映画で、邦題は何とも下手くそな訳で『コマンド戦略』というタイトルでした。
ちなみに、洋画の邦題はとんでもない誤訳をしていることがあります。
有名な誤訳は『戦略空軍命令』という映画ですが、原題は” Strategic Air Commad” なのです。戦略航空軍を作る時のエピソードが描かれているのですがcommandに部隊という意味があるのを知らず、Commad=命令としか訳すことのできなかった翻訳家のミスです。
Devil’s Brigade も「悪魔の旅団」と訳せば分かりやすいのですが、コマンド戦略では何の意味なのかさっぱり分かりません。
それはともかく、この映画では連合軍がノルウェーにあるドイツ軍基地を攻略するために米軍とカナダ軍の連合部隊を作って戦う様子が描かれています。
そこに登場するのが、ウィリアム・ホールデン扮する米陸軍大佐が指揮するならず者ばかりで編成された部隊と、統率がとれ、規律がしっかりとしたカナダ軍部隊なのです。
この「勇敢なるスコットランド」という曲が、カナダ軍が到着するシーンで使われており、バグパイプの軍楽隊を先頭にカナダ陸軍の兵士が行進してくるのですが、そこでバグパイプが奏でているのがこの曲でした。YouTubeでご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=g1awwAgU_t8
当時の私はその曲のことを知らず、単調だけどいい曲だなと思った程度でした。
後年、海上自衛隊に入隊し、遠洋航海で英国を訪れたことがあります。
僅かな時間を使ってロンドンに出て、トラファルガー広場の近くを歩いている時、またこのバグパイプの曲が聞こえてきたのです。
隣に立って見ていたおばあさんの分かりにくい英語の説明のよると、どこかへ派遣されていた連隊が帰還し、その凱旋パレードなのだそうです。
キルトを身に付けた派手な衣装の音楽隊の後ろにライフルを担いだ連隊の兵士たちが続いています。
私が腰を抜かさんばかりの驚いたのは、彼らの身の丈の高さでした。まるで森が動いてきたような大きさなのです。
こんな国相手に戦争を仕掛けちゃいかんとつくづく思ったものでした。
その時、隣で見物しているおばあさんがバグパイプに合わせて一生懸命に歌っていたので、なんという曲なのかを尋ねてみました。
すると彼女は、そんなことも知らずにこの国にいるのかという顔をして”Scotland the Brave”と教えてくれたのです。
何処の訛りかわからないのですが、the Brave を聞き取るのに3回くらい聞き直した記憶があります。これ以上聞いたら怒られそうという時にやっとthe Brave と言っていることが分かった次第です。
私がトラファルガー広場で驚愕したシーンに近いものもYouTubeでご覧いただけます。
https://www.youtube.com/watch?v=4TE9my5sqnE
この曲には後から歌詞が付けられています。それもなかなか味わい深いものがあります。
https://www.youtube.com/watch?v=g-JF5bPJZqk
歌詞にはいくつかのバージョンがあるようで、私が好きなのは次のものです。
https://www.youtube.com/watch?v=GowMI4wvmU4
多分、この時の影響がかなり大きいのだと思いますが、スコットランドやアイルランドの音楽に大変興味があります。
もともと私が中学時代はビートルズ全盛でイギリスの音楽に関心があったのは自然なのですが、それから一歩踏み込んでスコットランドやアイルランドの戦慄がとても心地よいのです。
Celtic Woman やCeltic Thunderなどのライブを一度観に行きたいと熱望しています。
ご存じない方はYouTubeで検索すると沢山出てきます。是非一度お聴きください。
Dry Navy
先日、ある雑誌を読んでいたら、びっくりする記事に遭遇しました。
書いているのは、比較的著名な評論家です。本人の名誉のため(私が彼の名誉を守らなければならない義理は全くないのですが・・・)お名前を出すことは差し控えますが、この記事を読んで、「評論家の正体見たり」という思いをしました。
彼の記事によると、「米国海軍や日本の海上自衛隊は、世界中の海軍から“Dry Navy”と称されている」のだそうです。
どうしてかというと米海軍や海上自衛隊では人間関係が無味乾燥であり、士官と兵隊との格差が極めて大きく、食事なども士官と兵隊では全く待遇が異なり、士官は兵隊を全く顧みることが無く、兵隊も士官を内心ではバカにしている、のだそうです。
この記事には重大な事実誤認があります。
米海軍艦艇において、確かに士官と下士官以下では食事が異なります。それは下士官以下の乗員には食事が無料で提供されるのですが、士官は有料なのです。
また、海上自衛隊は艦内では艦長以下総員が同じものを食べています。
異なるのは、士官室の幹部は、士官室係と呼ばれる当番の乗員がウェイター代わりにサービスをしてくれるだけであり、食事のメニューが異なっているわけではありません。
むしろ、科員食堂は、バイキング形式なので、好きなものを大盛りにして、熱いうちに食べることができますが、士官室では士官室係が皿に盛りつけてくれるので、好きな量というわけにもいかず、また、艦長が士官室に下りてくるまで待っていなければならないので、冷め切ったステーキを食べさせられることも珍しくないのです。
多分、この評論家はそのような事情を全く知らずにその記事を書いているのでしょう。
それよりも笑ってしまうのは、DryNavyと米海軍や海上自衛隊が呼ばれている理由を全く理解していないことです。
“Dry Navy”というのは、人間関係が無味乾燥なのではなく、「艦内で飲酒をさせない海軍」という意味なのです。
戦前の帝国海軍は、艦内飲酒ができました。大決戦の前夜、「酒保開け」という号令が拡声器から流れ、艦内無礼講で痛飲し、半ば二日酔い気味で大海戦を戦うというシーンが映画や小説の中でよく出てきます。酒保というのは艦内の売店で、酒も売っていたのです。
翻って現在の海上自衛隊は、米海軍に習って艦内飲酒を許可していません。したがって、艦隊勤務の頃は、いったん出航するとどこかの港に入って上陸でもしない限りアルコールから遠ざかりますので、肝臓のためにはとてもいい勤務でした。
もともと帆船時代のイギリス海軍などは、一定期間ごとにラム酒を配給しており、また、艦内で特別な作業などをさせた場合には、そのラム酒の特配などをしていました。ラム酒の調達量が不足で、航海中にラムが底をつき、その結果反乱がおきた船さえあります。
21世紀になってもイギリス海軍の艦艇などに招かれると、士官室にバーがあり、好きな酒を注文することができます。航海中は注文できる種類に制限があり、あまり強いものは飲めないようですが、ビールやワインなどは航海中でも飲めるようです。
とにかく驚くのは、評論家という方々の想像力のたくましさです。
よく何も知らないことに、それだけもっともらしい解説をできるものだとホトホト感心させられます。
彼らの国際法や安全保障、あるいは海洋や海事一般に関する評論の出鱈目さ加減については常日頃うんざりさせられていますが、彼らは恐ろしいものがないようで、まったく何の理解もない事柄についてもそれらしい評論をその場で繰り広げていきます。
今回の“Dry Navy”の記事により、評論家やジャーナリストとして名を成す人々に必要なのは、事実を探求していく能力や真実を見極める能力ではなく、思い付きをもっともらしく語る能力であることを思い知らされました。
ちなみに、私は英語の専門家ではありませんが、「人間関係が無味乾燥」という場合、dry という単語はあまり使われないのではないかと思います。
unsentimental, businesslike, realistic, hard-nosed, down-to-earth などの言い回しはよく聞きますが、dry という言葉がこの文脈で使われているのを見た記憶はありません。
木で鼻を括ったような挨拶のことを dry greetingと言っているのを聞いた記憶はありますが、どなたか、英語では「人間関係が無味乾燥である。」をどう表現するのか教えて頂けませんでしょうか。
ちなみに、艦内で飲酒を許可している海軍を何と呼ぶのでしょうか。
“Navy”です。
海軍では艦内で飲酒できるのが普通であって、飲酒できないのが特殊なので特別な呼び方があるのです。
ワインの想い出
当コラムは「コーヒーで始まり、ドライマティーニで締めくくる心豊かな一日」というタイトルになっています。ただ、お断りしておきますが、私は酒に強いわけではありません。どちらかというと弱い方です。弱いくせに強い酒を好むのでたくさん飲めないのが残念ですが、お陰様で肝臓は大丈夫なようです。
このコラムをお読みになったある方から、ワインは飲まないのかと尋ねられました。もちろん飲まないわけではありません。というより、毎日飲んでいます。
昼食時に飲むことはほとんどありませんが、夕食を家で食べる時には必ずワインが出ています。
毎日なので上等なワインは買えません。
若い頃に海上自衛隊の連絡官として米国に駐在していた際、ホームパーティで大勢の方を招待する時は必ず大量のワインを用意しておく必要があり、そういう場合は高級なものでなくとも構わないのでボックスワインを買っておくと、ゲストが勝手にグラスを持って行って自分で入れてくれるのですが、その時に見つけたコストパフォーマンスが高いテーブルワインがあり、帰国後、日本でも売っているのを見つけて、それ以後、我が家のテーブルワインとなりました。もう25年以上飲み続けていることになります。
普段、その安いテーブルワインばかり飲んでいるので、たまに誰かから頂いたり、外食でいいワインを取ったりするととても美味しく感じられる次第です。
初めてワインが美味しいと思った時のことは今でも鮮やかに覚えています。
大学生でヨットの外洋レースに熱中していた頃、乗っていた船ではワインがよく飲まれていましたが、それほど美味いとも思わずに飲んでいました。というよりも、レース中は我々学生クルーなどはガレー船の奴隷に等しいので、うっかりワインなどでいい気持になっていると後が大変なのです。
それがある時、油壷(三浦半島の古くからヨットの泊地として利用されてきた、その名のごとく油を流したように波一つ絶たない静かな湾です。)に入港してきたアメリカ人のヨットの世話をするようになって事情がちょっと変わりました。
退役した空軍中佐とその奥様二人で太平洋を巡航中に日本に寄港し、油壷にしばらく停泊していたのですが、同じく油壷で仲間の船の整備を手伝っていた私が、その夫妻の面倒を見ることになりました。
整備に行くたびに声を掛け、近くのスーパーに車で買い物に行き、日用品や食料を買い込んでくるのを手伝うのです。
当時、油壷周辺のスーパーではピクルスやライムなどが手に入らず、それらのものを私の家の近くで手に入れて持って行ったこともありました。
ある時、他のクルーが来なくて仲間の船に入ることができず、その整備ができないことがあり、米人夫婦の船のニス塗りを手伝ったことがあります。
その時、奥様が昼食だと言ってデッキに持ってきたのが、キャビンで焼いたばかりのパンと大きなチーズの固まり、そして壺に入ったワインでした。
フランスからの移民の子孫である奥様の日常の簡単な食事なのだそうです。
日本で言えば、ご飯と漬物とみそ汁の三点セットなのでしょう。
平日の誰もいない静かな油壷湾の一番奥、大型のヨットのデッキ上で、初老のご夫妻と三人だけで取る昼食。
ワインがこれほど美味いものとは知らなかったのですが、完璧な昼食でした。
このご夫妻は2か月ほど日本に滞在し、シアトルへ戻るために出航していきました。
油壷を出発する日、私たちは夕方まで伴走し、房総半島の沖合で手を振って別れました。
別れ際、御馳走になった昼食のワインが今までで一番美味しいワインでした、と告げると、奥様が「私たちもよ。」と言って微笑み、元空軍中佐が大きく頷いた顔が夕陽に染まっていたのをつい昨日のように思い出すことがあります。
One for all , all for one
何年か前のことですが、ある方と話をしていてちょっと気になることがありました。
その方はある上場企業の取締役を経験された方ですが、彼が初任管理職の時代から部長になるまでの間、部下を指導する基本方針として “All for one, One for all” という標語を掲げたとおっしゃるのです。
その方は東京大学ラグビー部出身で、ずっとその精神でやってきたとおっしゃるのです。
私にもラグビーの経験はありますが、私たちは “ One for all , all for one “ というフレーズで育てられてきました。
実は、この語順が変わると文脈の意味が変わってしまうのです。
この元取締役は「皆は一人のために、一人は皆のために」という精神を大切にしてきたと仰るのですが、ラグビーの” One for all, all for one “ は「一人は皆のために、全ては勝利のために」という意味を持ちます。
これはアレクサンドル・デュマ原作の『三銃士』の中で、アトス、ポルトス、アラミスそしてダルタニャンが剣を合わせて誓う言葉として有名になったものと言われています。
つまり、One for all のOneは「一人」の個人を指しますが、All for one のoneは「勝利」を指しているのです。
これをもって「一人は皆のために、皆は一人のために」というのを誤訳だという方もいらっしゃいますが、必ずしもそうではありません。
デュマの『三銃士』の方はどう読んでも「一人は皆のために、皆は勝利のために」という意味になりますが、この” One for all, all for one “ が最初に語られたのは『三銃士』ではありません。
かつて必要があってスイスの歴史を調べていたことがあるのですが、その際に、スイスの伝統的な価値として大切にされている言葉として“Unus pro omnibus, omnes pro uno”という言葉があるということを知りました。
これはラテン語ですが、スイスはこれをスイスの4つの公用語で掲げているそうです。必ずしも法律や憲法に規定されているものではないのだそうですが、スイスではあらゆる政党がこれに異議を唱えていないということでした。
私はラテン語が分からないのでドイツ語を見ると“Einer für alle, alle für einen”とあります。まさに“ One for all , all for one” そのものです。
これは1868年10月にスイスアルプスの広範囲に洪水をもたらした嵐の際、当局がこのスローガンのもとに連邦となってまだ間もなかったスイス国民に挙国一致を呼びかけ、それが新聞に掲載されて寄付のキャンペーンが行われたことに端を発しています。
このスローガンは明らかに「一人は皆のために、皆は一人のために」を示しています。
さらに歴史を遡ると1618年にボヘミアで行われたカトリックとプロテスタントの指導者の集まりにおいて、プロテスタントの指導者が読み上げた決意の中に、カトリックによる迫害に対して「一人は皆のために、皆は一人のためにとの気概を以て確固と立ち上がった」という一文があるのだそうです。
つまり、「一人は皆のために、皆は一人のために」という訳も決して間違っているわけではなく、ただラガーの合言葉の” One for all, all for one “ は『三銃士』と同様、「一人は皆のために、全ては勝利のために」を意味しているというだけのことなのです。
ちなみに、映画では「我らは銃士、結束は固い。」と訳されていたように記憶します。
ここで件の元取締役がなぜラグビーから得た訓えだとして“All for one, One for all” という逆順の言葉を持ち出し、そしてそれをあえて「皆は一人のために、一人は皆のために」という精神だとしておられるのかという疑問が私には残ります。
この方が東大のラグビー部出身であるということはラグビーにおいては“All for one, One for all” ではなく、” One for all, all for one “ であり、しかもその意味が「一人は皆のために、全ては勝利のために」であることをよくご存じのはずなのです。
勘違いということは考えられません。ラグビー部員は嫌というほどこの言葉を聞かされて育てられるのです。
何か意味があるはずです。
お話を伺っている間中、何かヒントが無いかと考えていたのですが、最後までよく分かりませんでした。
そのうちに先方から「私の話で何か気が付いたことはありませんか?」といきなり聞かれたのです。どうも私が疑問を抱いていることを見透かされたようです。
そこで素直に“All for one, One for all” というのはどういう意味合いを持つのかを考えていましたとお答えすると、その元取締役はニコリとされ、「やはり気付かれたんですね」とおっしゃり、理由を説明してくれました。
彼がまず All for one を先に出したのは、とにかくチームワークを優先して欲しいという思いからなのだそうです。One for all が先に出てくると自己犠牲の精神が先に立ってしまう、そうではなくて皆がそれぞれお互いを思い合う連帯感の強いチームを作って欲しいという意味なのだそうです。
そのようなチームはメンバーの幸福感を高める、会社に来るのが楽しくなる、仕事を楽しんでできると信じているということなのだそうです。
たとえ業績が上らなくても、自分の部下たちが毎日楽しく出勤して来て活き活きと働いてくれればいい、それで業績が上らないのは自分の指導が至らないからだという覚悟なのだそうです。
これは私が常々思っていたこととまったく同じ発想だったので本当に驚きました。
この元取締役はその後子会社の社長として赴任し、それまで雰囲気が暗く、社員の不祥事が続いて業績が悪化していた会社を見事に再建されました。
その再建された会社のある日のエピソードを私は昨年上梓した拙著の一番最後に載せています。
活気のある素晴らしい会社です。
” One for all, all for one “ というフレーズはいろいろなシチュエーションで引用されますが、この簡単な一言には様々な想いが込められており、また、それぞれの想いを込めることもできるのだということをご理解頂ければ幸いです。
『事業大躍進に挑む経営者のための「クライシスマネジメント」』セルバ出版